闇食堂にて   理山貞二


 俎板に置かれた肉塊を前に頬杖をつく。縞瑪瑙のように白い筋の走る表面には、霜がまだ残っている。
 どうしても食べたくなって肉屋で衝動買いしたものの、調理の仕方まで分からなかったんで、ずっと冷凍庫に入れていたんだ。そう松山はいった。旨い角煮を作ってくれ、とばかりに持ち込まれた二キロの豚ブロックは、確かにずいぶん長い間冷凍庫にあったらしく、表面は茶色に変色していて、すこし削らねばならない。
 そういえばしばらく松山の姿を見ていない。
 問題は献立を考え直さねばならないことだ。圧力鍋で煮込んでいる最中にも、角煮は芳香で他の料理を圧倒するだろう。ほかに持ち込まれた食材が余ってしまう。
 冷蔵庫の中を見る。冷凍の小籠包。スジ肉をふんだんに使ったビーフストロガノフの作り置き。車海老。バジルとオリーブ油に浸ったエスカルゴ。うちの客はみんな肉が好きだ。
 足が早いのが気がかりだが、車海老は明日に廻すことにした。エスカルゴは少し油を落して前菜に付ける。ビーフストロガノフを火にかけ、流水で小籠包の解凍を始める。角煮は中華風に味付けすれば形は整う。形だけは。
「本物のヌーベルシノワが食べたいならまっとうなレストランに行くさ」とエスカルゴを食べながら客の一人が言う。桧原とかいう、定年再雇用で働いている会社員だったか。
「しかし、ああも高いんじゃねえ」
 俺が無視していると、別の客が会話を引き継いだ。
「高いからだけではない。単に消費税を上げるのでなく、軽減税率のシステムを導入したために、外食は損、というイメージが国民に刷り込まれてしまったのだ。同じ軽減税率でもドイツなどは持ち帰りと外食で十パーセント以上の差があるのに比べて、我が国の場合、最初は二パーセントの差異しかなかったにも関わらず、だ。これは国民性の差というものだろう」
 たしか桐野とかいう退官した教授で、ろくに食べもせずスプーンでビーフストロガノフをかき回している。
「それでも増税は必要だった。全国の就業者の約一割が国から給料をもらう公務員であり、社会福祉も公共サービスも減らせないとなれば。では、誰からどうやって取ればいい?」
 俺は黙々と豚ブロックを削る。
「これは儂の勘だが観光客、とくに海外からの観光客の財布を狙った政策だよ」
「先生の言う通りだとしたら大都市でも観光地でもない、ただの住宅街の中にあるこんな食堂にとっちゃあ、大痛手だったろうな」
 おかげで今は繁盛しているよ、と俺は心の中で呟く。食材持ち込みというのは、ずいぶん割安につくらしい。ただ最近は騒がしいのと、いつも同じ話ばかりするのとで、うんざりすることも多いが。
「すまんがこれで何か作ってくれ」杉田とかいう会社員が油の滲んだ紙袋を開く。フライドチキンの匂いが部屋いっぱいにたちこめた。
 チン、とひび割れた音がした。俺は電子レンジの扉を開き、少しべとべとする紙袋の中身を皿に開けた。フライドチキンは、油を俺の掌に出し切ったようで、齧るとササミの熱い舌ざわりだけが残った。
「うわ、勘弁してくれ」客たちがいっせいに悲鳴を上げている。
「だって食べたかったんだよ」杉田は半ば泣きそうになりながら熱弁を振るった。
「ほら、こういうのが無性に食べたくなるときってあるだろう。それからほら、スーパーの片隅によくあるだろう、パーティーセットとかいってフライドチキンやフライドポテトがパックになっているやつ。ああいうのを、友達と一緒に喰うって、今までやったことないんだよ」
「おれ、その手の匂いを、まいにち嗅がされているんだわ」桧原が不快そうに言う。「朝の通勤電車で、必ず誰か喰っているからな」
「桧原さん、そんなにひどいかね」
「スマホのときとおんなじだよ。朝飯を電車の中で喰うのがあたりまえになっちまった。車内はごみだらけ。吊革にはソース、満員電車で揺られながら耳元でくちゃくちゃやられる」
「そういえば最近ごみが増えたな」
「別に若者に限った話ではなく、外できちんと飯を食う機会がないから、家と外の区別がつかない奴が増えているんだよな」
 ぶつ切りにした豚ブロックをフライパンにあけた。強火にし、肉を炒める音で邪魔な会話をかき消す。ついでに油で茶色く固まった換気扇の紐を引っ張る。
 回らない。部屋の中に妙な匂いが漂いはじめた。いろいろな肉の混じりあった匂いだ。おれは仕方なく窓を少し開けた。近所に怪しまれないように、早めにフライパンの中味を鍋に移し替えた。葱を入れ、水を注ぐと、音が少し穏やかになる。
 客の話し声もいつの間にか止んでいる。
「そろそろ行くわ」松山が立ち上がろうとしていた。
「おい、まだ何も注文してないだろう。そうだ、このあいだ持ってきてくれた肉で旨い角煮ができるぞ」
 そう薦めても、松山は首を横に振った。
「悪いが現金は持っていないんだ」
「ここは普通の食堂じゃない。友達のよしみだ。ツケにしといてやる」
「そういう意味で言ったんじゃない」
 古い友人はカウンター越しに顔を近づける。
「政府はもう何年も前に貨幣の鋳造も紙幣の印刷も止めているんだ。今は国税庁管理のブロックチェーンをベースにしたカード決済が主流だ。誰が誰にどういう用途で金を使ったのか、ぜんぶ筒抜けなんだよ。俺たちが外食したのか、持ち帰ったのかなんて些細なことまで。奴らにわからないのは、ここに来る客がどういう理由であんたに金を払っているのか、ってことだけだ」
 部屋の匂いがますますひどくなる。カウンターには、食べかけの料理が放置されていた。ビーフストロガノフは干からびて、びっしりと黴が生えている。その隣の皿の中でうごめいているのは、エスカルゴではなく何かの虫だ。流しには膨らんだビニール袋が浮いていて、小籠包の黝(あおぐろ)い塊が透けている。半開きの冷蔵庫からは、黄色い汁が垂れていた。
 角煮の鍋が静かに湯気を噴いている。
「ほら、みんな料理を味わう前に逃げてしまった。もう、この店はおしまいだよ。早く畳んで、別の仕事をするといい。あんた、例の手紙を何通も受け取ったんじゃないのか?」
 そんな手紙は知らない、と俺は叫ぶ。松山は姿を消している。空っぽのテーブルの脇に掛かった勘定書きを掴むと、部屋に立ち込める匂いに追い立てられるように、俺は食堂から飛び出した。
まだオーダーも取っていないのに。
 誰もいなくなった食堂の、玄関のドアを開いて外に出た。住宅街の中、闇食堂とは知れないよう、普通の一戸建てを改装してつくった俺の城。門扉を開くと、郵便受けから封筒がばさばさとこぼれ落ちた。わざと踏みつけて、敷地からまろび出る。一つ道路を渡ればそこは商店街で、松山は駅に向かったはずだった。
 商店街のアーケードの下は薄暗く、店舗にはシャッターが下りている。道は通行人の落とすゴミだらけで、おまけに迷路のように入り組んでいる。わざとそういう造りにしたのだ。けれども客を呼び戻すことはできなかった。
 夕陽の差し込む商店街を、松山を探して俺は走り続けた。角煮の香ばしい匂いが、まだ追いかけてくる。





理山貞二
小説を書く会社員。

ほんとに不安を誘う写真です。